宗教家としてのお寺の役割
それは仏教の長い歴史のなかからすれば数十年の期間でしか
ありません。
歴史のあるものは、永い期間脈々と受け継がれた物があります。
そこには、生活の知恵、組織存続の知恵があります。
国家天下を論じるときには、100年の計とよく言われます。
ものの評価は100年くらい経たないと歴史上の評価ができない、
また、物事の本質に迫ろうとすると100年経っても、
評価、価値の変わらない物を目指すといったところでしょうか。
宗教の役割というより、お寺の存在が今の時代どのような姿で
あるべきか、人口の流動化の中で、地方の過疎化、都市部の人口の
集中が進んでいます。
お寺にとっても、檀家の数の減少、都市部での新規檀家の勧誘と
いった、地方と都市部のアンバランスが宗教界でも起きています。
歴史のあるお寺で、高僧がいらしても、檀家の減少に悩み、
生臭坊主であっても、都市部であれば自然と檀家の数が増えると
いった、人口移動の社会現象の中で寺の檀家数による勢いが
出てきます。
宗派による違いはあると思いますが、お寺はもともと
そこに住んでいる、住職の持ち物ではありません。
その寺を家族で継ぐ者がいないと、他の住職がその寺を継ぐことになり、現在の住職家族はその寺を出て行かなくてはなりません。
人の体と同じで、この世の借り物といった、借りの住まいという位置づけです。
個人の所有でない寺をもっと檀家や、住民に開放してもいいと思います。車によって社会的ステータスを誇示する事などは、たとえ趣味であっても僧職にあるもののすべきことではありません。
ややもすると、都市部近郊の新興の寺は人口の増加の恩恵を受けやすく、またそのような寺を興す年齢も若い為に、どうしても俗っぽく
なりやすいですが、心して質素、倹約を旨とした、人間形成をおこなっていただきたいものです。
京都の永い伝統下の宗教寺院も、華美であったり、規模の大きさで
人を威圧するようなものであってはならないと思います。
いくら建物が立派になっても人はその身丈以上にはならないのですから。今後も宗教が存続していく為のさらなる100年の計は
宗教界が今後どのように残っていくか、問いかけられています。